ダーク ピアニスト
〜練習曲8 チェーンリング〜

Part 2 / 2


 通りを折れ、幾つかの商店を過ぎ、公園の前に来た。散歩する老婦人やベビーカーを押す若い母親。学生らしい若者の姿もチラホラ見える。いつもと変わらないのどかな光景だ。
「よかった。特に変わった事はないみたい」
ルビーは歩調を緩めると公園を覗いた。見ると木陰に老人が一人で佇んでいる。
「あ! あのお爺さんだ」
ルビーは急いでそちらへ駆けて行くとその老人に挨拶した。
「今日は。お爺さん」
老人はチラリとルビーを見ただけで、フンと鼻を鳴らして目を閉じた。

「何をしているの?」
「聞いとるんじゃよ」
老人がボソリと応える。
「何を?」
「鳥の声をだ! 邪魔をせんでくれ」
老人はきつい目で睨みつけたが、ルビーは興味津々で語り始めた。
「鳥さんの声、僕も聞きたいな。ねえ、ここにいてもいいでしょう? 僕ね、鳥さん、大好きなの。でも、アヒルだけはちょっといやなんだけど……と言っても、それは、本物のアヒルさんの事じゃなくて、人間のアヒルでね、僕にいやな事したの。それで、僕、そいつをやっつけてやったんだよ。そしたらねえ、そいつってば……」
「邪魔だと言ってるんだ。向こうへ行け!」
「ああ、そうか。僕がおしゃべりしていたら、鳥さんのお話が聞けないものね。ごめんなさい。それじゃ、僕もいっしょに鳥さんの言葉を聞くね」
と言って、彼は唇に指を押し当てピーッと指笛を吹いた。澄んだその音は遠くまでよく響いた。すると、何処からか木々の梢から鳥達が顔を出し、バサバサと羽を広げてやって来た。そして、彼らの頭上で舞い、老人がもたれていた木の枝に次々と止まった。そして、その中の小さな黄色い小鳥がルビーの頭に止まろうとして滑り、結局、彼の肩に止まって落ち着いた。

「これは……何と驚いた」
老人は目を丸くしてその光景を眺めた。
「おまえは、鳥使いなのか?」
老人が訊いた。
「ううん。違うよ。でも、鳥さんはお友達なの。呼べば必ず来てくれるよ。そして、楽しいおしゃべりを聞かせてくれる。
ねえ、お爺さんもそうなんでしょう?
僕ね、花や鳥や自然のものと話していると、みんなから頭がおかしいって言われちゃうの。でも、僕には、ちゃんと彼らの声が聞こえるんだもの。でも、それは、僕が適当に作ったお話じゃないかとか、ただの音がそんな風に聞こえるのはおかしいから病院に行って診てもらいなさいとか、誰も信じてくれないの。
でも、お爺さんは信じてくれるよね? だって、お爺さんにも聞こえるのでしょう? 鳥達の声が……僕、うれしいんだ。僕と同じ声を聞く事の出来る人に会えて……ねえ、僕達、お友達になれるでしょう?」

――失って悲しい思いをしたくないなら……

頭の中にギルの言葉が聞こえたような気がしたが、彼はそれを払い除けた。
「ねえ、お爺さん? それにね、僕、あの後、ちゃんと一人で練習したんだ。それで、随分出来るようになったんだよ」
とニコニコとうれしそうに笑い掛けるルビーに老人は渋い顔をして言った。
「おしゃべりな子供は嫌いなんでな」
「子供じゃないよ。僕はもう……」
「黙れ! いいから何処かに行ってくれ。一人でいたいんじゃ」
「だって、鳥さんは?」
「向こうへ行けと言ってるんだ!」
老人はバンッと彼を突き飛ばした。バランスを崩して彼はペタンと尻を突いた。止まっていた鳥が驚いて羽を広げて騒ぎながら飛んで行った。ルビーは、呆然とした顔で鳥が飛んで行った空を見、それから、老人を見て、あーっと声を上げて泣き出した。その声に、通りすがりの人々が何事かと遠巻きにこちらを見ている。老人はばつの悪そうな顔をしてルビーに言った。

「その、悪かったな。坊主。そんなに強く突いたつもりはなかったんだが……」
けれど、ルビーは泣き止まない。そうこうしている間にも人がどんどん集まって来る。
「一体どうしたのかしら?」
「爺さんがあの子を殴ったんだ」
「何? 暴力? 虐待? 警察を呼んだ方がいいんじゃない?」
そんな声が聞こえて来る。
「えーい! 散れ! これは見せ物なんかじゃないぞ!」
老人が怒鳴った。

「おまえもそんな事くらいでピーピー泣くんじゃない! そら、立て! 泣き止んだらいい物をやるぞ」
「いい物って?」
ルビーが訊いた。
「リングだ」
と言って鞄の中から赤と黄色と緑の輪を取り出した。
「ホント? くれるの?」
ルビーの顔がパッと輝く。老人は頷くと
ピクンと眉を上げて言った。
「全く。現金な奴だな。ああ、そうだ。おまえにやろう。こいつを覚えたいんだろう?」
「うん! ありがとう」
と言ってルビーは跳ね起きると老人の手からそれを受け取った。そして、ポンと空中に投げる。そして、次の輪も……。三つの輪がクルクルと空中を回る。

「ホウ。なかなか上手いもんじゃないか」
と老人が感心する。
「うん。僕ね、一生懸命練習したんだ。算数よりアルファベートより早く覚えたよ」
と言って笑う。と、釣られて老人も微笑した。
「なら、こんなのはどうだ?」
老人は鞄の中からもう一組の輪を取り出すとまるで人つながりのチェーンのように空中を泳がせた。
「わあ! すごいや。僕もやりたい! どうやってするの?」
とルビーはニコニコと老人に訊いた。
「おまえさんは何処から来たって?」
「ドイツ。僕、普段はドレスデンに住んでるの。でも、時々はフランクフルトやベルリンや、いろんな所にも住むの」
「名前は?」
「ルビー」
「ルビー何て言うんだ?」
「ルビー ラズレインだよ。お爺さんは?」
「フランク バイソンだ」
と老人は言って目を伏せた。

「どうしたの? ねえ、僕にもっと教えてくれないの?」
じっと覗き込むその瞳に濁りはない。老人は何かに迷っているように見えた。
「ねえ、本当にどうしたの? 僕がドイツ人だから? それとも、僕が日本人の血も混じっているから? お爺さん言ってたでしょう? ドイツも日本も嫌いだって……どうして?」
「戦争のせいじゃよ」
老人がボソリと言った。
「あの戦争が何もかも狂わせてしまった……」

「戦争? 戦争があったの? 何処で? 僕は知らないよ」
「世界中でだ。おまえさんが生まれるずっと前だ」
「生まれる前に?」
「そうだ。その戦いで大勢死んだ。家族も親戚も、それに、友人もだ。誰一人生きては帰らなんだ……」
「どういう事?」
「殺されたんだ。皆、ドイツ兵や日本兵の連中にな」
「どうして?」
「どうしてだと? そんな事こっちが訊きたい台詞じゃよ! 貧しいながら、真面目に生きてささやかな幸せを糧に生きていたんだ。それを……! 戦争が何もかも奪った。夢も家族も何もかもを……!」
「何も悪い事をしていないのに殺されたの?」
「そうだ! 何も悪い事などしていないのにだぞ! ナチスの連中は、何の罪もない女子供まで連れて行って、そして……! この手に残ったのは深い悲しみと絶望……そして、消える事のない憎しみの火……!」
握り締めた輪が弾けて老人の足元に散った。

「今も続いているんだね……」
遠い空を見つめてルビーが言った。
「そうだ……」
老人が頷く。
「戦後なんて言葉は永久に来やせんのだ」
「そう……。今も戦争は終わっていない。一見平和に見えるこの街の何処かで泣いてる人がいる限り、戦争は終わっていないのかもしれない……現に今も……」

と、突然遠くで大きな爆発音が響いた。
「わっ! 何? 今の……。雷?」
近くを散歩する人が立ち止まって空を見る。が、そこに雲はなく、風もいつもと変わらない。が、ルビーはその風に微かに火薬の臭いが混じっている事に気づいた。
「爆弾だ……やっぱり戦争はまだ終わっていないみたいだね」
と微笑するルビーの横顔には、もう、先程までの無邪気さはない。遠くでサイレンが響き出した。取材のヘリコプターも早々とローター音を響かせている。

「鳥は、おまえに何を語って聞かせた?」
「鎮魂歌」
「上出来だ」
と老人は言って微笑した。
「おまえが『ダーク ピアニスト』か?」
「そうだよ」
「驚いたな。こんな坊やだったとは……」
「あなたは何故、まだ戦争をしているの?」
「それが、全てだからじゃ」
「悲しいね」
「ああ。悲しいさ。せっかく知り合っても殺さなきゃならない」
風が二人の間に避けようのない歴史を呼んで渦巻いた。遠くでまた一つ爆発音が響く。

「テロだってよ! バスと地下鉄がやられたらしい」
誰かが叫ぶ。と、人々は好奇と恐怖に駆られてそこからいなくなっていた。
「僕を殺すの?」
ルビーは三つの輪を束ねて弄びながら言った。老人が頷く。
「何故?」
「復讐さ」
「何故こだわるの? 僕がドイツ人だから?」
「それもある。だが、もっと直接的な原因をおまえさんが作ったからじゃよ」
「直接?」
「そう。エルトン スミスはわしの不詳の息子だったんだ」
「あのアヒルさんの?」
「そうさ」

それを聞いてルビーは微かに笑った。
「なら、すっかり同じじゃないか。『ヘビー ダック』の目指していたものも、ヒトラーが目指していたものも……。そして、どちらも純粋ではなかったという点でもね」
「そう。息子には八分の一アジアの血が流れている。もうほとんど薄まって見た目にはすっかり白人と変わらない。だが、息子にとってはそれが許せなかったのだ」
「それを知って何故あなたは止めなかったの? ドイツ人が未だに過去の戦争における罪を被らなければならないのだと言うならば、同じ罪を犯した息子を止めなかったあなたの罪も同罪だ。人間は皆、一つの輪の中で絶対に逃れられないチェーンに繋がれている。同じ罪を背負いながら、閉ざされた未来の中でもがいている一個のパーツでしかないんだ。でも、そのパーツの一つ一つが光を浴びて独自に光る事だってある。この輪のようにね」
ルビーは持っていた輪を次々に空へ高く放った。

その中の一つが太陽を浴びて光った時、その輪の繋ぎ目を銃弾が貫く。そして、それはそのまま飛ばされて彼らから離れた茂みに落ちて爆発した。
「ギル! 来てくれたの」
とルビーが笑う。撃ったのはギルだった。
「さすがだな。『人形遣い』」
「フッ。亡霊の割に手の込んだ真似をしてくれるじゃないか」
硝煙の向こうに立つのは銀髪の人形遣い、ギルフォート グレイスだ。
「こいつはな、『レッドウルフ』の創設者の一人で『チェーンリング』と言われた男さ」
「チェーンリング?」
「天才的パフォーマーだった能力を使ってリングやボールの中に爆弾を仕込む。そして、単発、連射、思いのままに操って確実にターゲットを殺す。なかなか見事なお手並みだったが、おれの人形は、それ程間抜けには出来ていないんでね」
「へえ。そうだったんだ」
とルビーが残りのリングを触りながら言った。
「これが爆弾になるなんて、ちっとも気がつかなかったよ」
と赤いリングを頭に載せる。

「ルビー!」
ギロリと睨んでギルが言った。が、ルビーは全く気にしない。
「ギルは緑の方が似合うね」
と彼の頭に乗せようと両手を伸ばす。が、もう少しのところで届かない。
「あーん。もう少し低くなって」
と駄々をこねるが、ギルが言う事を聞いてくれないので仕方なく、そのリングと自分の頭に乗せた赤いリングを持って交互に 投げて遊んでいる。
「なかなかよく仕付けているようだな」
フランクは目を細めてルビーを見た。
「あんたのアヒルちゃん程じゃないがね」
ギルフォートも言い返す。

「あれは、なかなかよくやったよ。あれも戦災孤児でな。拾った時には栄養失調でガリガリに痩せて字も書けずに盗みやかっぱらいをして辛うじて生き延びていた。それでも、奴は野心に満ちた目をしておった。だから、わしは奴を引き取り、教養をつけさせ、立派に育てた」
「フーン。それでアヒルさんはただのみにくいアヒルになっちゃったんだね」
とルビーは二つのリングを頭に乗せて笑った。
「言った筈だ! わしはおしゃべりな子供は嫌いだと」
「僕も言ったよ。僕はもう子供じゃないって……」
と口を尖らせる。
「それにさ、ずるいよ。教えてくれるって言ったのに……まだ、何も教えてくれていないじゃないか」
ルビーが二つの輪を弄んでいると老人が言った。
「ああ。教えてやるともさ。あの世でじっくりとな」
老人は袖口から取り出したチェーンを素早く投げた。

「ルビー!」
ギルの声に反応して彼はその鎖を持っていたリングに絡めるとつなぎ目の小さなピンを外して老人に投げ返した。フランクがそれを払おうとするより早く、ルビーはもう一つのリングも逆方向から放る。と、二つのリングは拮抗し、チェーンが老人に絡まる。と同時に、フランクが取り出した大きな輪にもろとも入ると爆発が起きた。ルビーとギルは左右に跳んで、爆発をかわす。ルビーが抜いたそれは爆弾の安全装置だった。朦々と立ち込める煙の中で大きなリングが閃いて、クルリと回転した。そして……。
「消えちゃった!」
ルビーが驚いて言った。
「目くらましだ。恐らく奴は……」
ギルは目の前の大きな木の上に狙いをつけると銃を連射した。大きく茂った木の葉が揺れる。
――やるな。小僧。だが、次に会った時にはこうは行かんぞ
声だけが響いて老人の姿は何処にもなかった。梢はただ自然の風にそよそよと揺れるだけに留まっている。

「お爺さんは? 何処に行っちゃったの?」
「さあな」
ギルフォートが銃を修めるとルビーが側にやって来て言った。
「あれも『レッドウルフ』の仕業なの?」
とサイレンの鳴っている方向を示す。
「恐らくな」
「僕達も行ってみる?」
「いや。家に戻ろう」
ギルは携帯で何かを確かめるとカチリと蓋を閉じてポケットに入れた。
「来い」
歩き出したギルの後を追ってルビーはスキップしながら付いて来る。その彼の周りを鳥が何かを告げるように鳴きながら飛び回る。

「ところで」
突然、ギルが立ち止まって言った。
「今日は病院へ行く日だったんじゃないのか?」
「どうして? 僕、もう平気だよ」
「薬もなくなってるだろう?」
「まだあるもん」
「そんな筈ないだろう?」
「あるよ。ちゃんと取っておいたんだ」
とニコニコしている彼を捕まえて言った。
「ちょっと見せてみろ」
とシャツをめくる。
「いやだよ! やめろ! 僕はもう治ったんだ!」
暴れるその手を押さえつけてギルは言った。
「治ってない! 見ろ! 傷が赤く化膿し掛けている」
「平気だよ。これくらい」
と彼はその手から逃れるとシャツをかき合わせて睨む。
「ダメだ! すぐに病院に行くんだ!」
「いやだ!」
そう言って駆け出す後を追って、ギルフォートは過去の風を思う。

――遊んでてケガをさせたって? 何故すぐに言わなかったんだ?
――だって、血はすぐに止まったし、大した傷でもなかったから……
――それでもだ! ミヒャエルは弱い子なんだ。ちょっとした傷でもすぐに化膿して熱を出す。おまえはお兄ちゃんなのだから、ちゃんと自覚してもらわないと困るんだよ。ギルフォート
――はい。わかりました。お父さん。これからは、もっと気をつけます

――ルビー! 傷にはちゃんと消毒薬を塗っておかないとダメよ! あなたは化膿しやすいんだから……

バラの茂みでエスタレーゼが彼を追って叫ぶ。

「化膿しやすい……か」
ギルフォートはシャツの下に付いた彼の傷を思った。普通なら、傷は出血が止まり、皮膚が盛り上がって再生すると跡形もなく消え、何もなかったように戻る。なのに、ルビーのそれは違っていた。小さな傷も大きな傷もこびり付いた血のように赤く盛り上がったまま残ってしまう。昔の傷に痛みはないらしいが、見た者の胸を抉る。
醜いと顔を背ける者もいる。幸いなのは、顔や手にはそういった傷がない為、洋服を着てしまえばわからない。にしても、何故、服の下にそれだけたくさんの傷が隠されているのか? そして、その傷はだんだん増えて、彼は人前ではほとんど肌を見せなくなった。顔立ちのいい彼を女は頻繁に誘って来たが、いざそれがわかると、皆彼を置き去りにして逃げ去った。
その傷は確かに醜かったが、彼の心が醜い訳ではない。それを見て醜いと感じる目を持った者の方が余程醜いのだ。けれど、その事で傷つけられるのはいつもルビーの方だった。それでも彼は夢見ていた。いつか、自分を本当に受け入れてくれる人が現れる事を……。ならば……とギルは思う。これ以上、むやみに傷を増やす必要等ないのだ。出来てしまったものは仕方ないが、予防出来るものなら避けるべきだと……。だから、彼を追った。そしてその分、傷を負わせた『ヘビー ダック』が憎かった。

 結局、捕まえられて病院に来た彼だったが、病院は先程のテロの影響で混雑していた。
「これじゃあ、何時になったら順番が回って来るかわからないな」
とギルが呟く。
「そうだよ。あの人達の方がずっと重症なんだから、僕達は帰ろうよ」
「そうだな。また、明日にでも出直すか……」
とギルフォートも諦めて二人が通用口に向かっていると、また、一台の救急車が止まり、慌しく担架を持った救急隊員達が駆け抜けた。と、通りすがりに担架に寝かされている人物の顔を見て驚いた。

「チャーリー!」
ルビーがその後を追った。が、医師達の懸命な努力にも関わらず、チャーリーは一時間後に息を引き取った。一連のテロの犠牲者の内、チャーリーを含めた11人が死亡、126人が重軽傷を追う大惨事となった。
「また、一つ、傷が増えた……」
チャーリーの死体を前にルビーが言った。
「これは偶然?」
振り向かないでルビーが言った。
「いや……」
顔を背けてギルが応える。
「ならば、奴らが滅びるのは必然という訳だ」
唇の端を僅かに上げてルビーが言った。
「ああ」
胸の中で撃鉄の金属音が響く。そして、彼らはすぐに行動に出た。

 深夜。テムズ川の周辺をパトロールしている警官の前に現れた人間は、まるで闇に溶け込んだような漆黒の髪をしていた。

「誰だ? そこで何をしている?」
警官が懐中電灯を向けると彼は無邪気に笑ってこう言った。
「ロンドンブリッジを探してるんだ。ほら、あの有名なマザーグースの……」
そうして、彼は歌い出した。
「いい顔をしているのに……」
警官は哀れに思ってやさしく言った。
「今は、もう夜中だからね。それに、この辺りは物騒だから、お巡りさんが送ってやろう。君の家は何処だい? お家の人はいるのかな?」
「今日は、ここで花火大会があるって聞いたんだよ。だから、僕、見に来たんだ」
「花火大会? こんな時分にはないだろう。きっとそれは聞き間違いさ」
と諭すように彼の肩に手を掛ける。
「本当だよ。ほら、始まった」
彼が空を指差して笑う。警官の背後でヒューンと宙を裂く音が響いてバンッと何かが空で弾けた。
「花火? まさか……?」
警官が信じられないといった風に瞬きする。と、振り向いた時には、もう闇の子供の姿は何処にもなかった。
「消えた? バカな……!」
途端に、空のあちこちで爆発が起きた。閃光に照らされて水面が揺れる。橋と遊覧船の陰が揺らぐ。そして、その船の中の人影が橋に向けて発砲していた。その橋の上にも人影が踊る。銃撃戦だ。警官は慌てて無線で連絡しようとした。と、頭上から舞い降りた闇に口を塞がれ、薬品で眠らされた。

「それじゃ、僕も……」
ルビーは川岸からヒラリと飛んで船のマストに止まった。
「アヒルさんの仲間は、やっぱり水の上が好きみたいだね」
風に靡いて長いマントが揺れる。
「何だと? ふざけやがって……! 撃て!」
船に乗っていた連中が一斉に撃って来る。が、ルビーは余裕の笑顔を向けたまま避けようともしない。
「悪いけど、おまえ達のような雑魚に用はない。僕はチェーンリングのお爺さんを探してるんだ。ねえ、誰か知らない?」
ルビーはストンと甲板に下りて言った。その間にも彼を狙った銃弾が降り注いでいたが、彼は気にしていなかった。

「『チェーンリング』に何の用がある?」
リーダーらしい男が訊いた。
「約束したんだよ。僕にジャグリングを教えてくれるって……」
弾丸は全て彼の手前で逸れて行く。
「奴はもういない。アメリカへ行ったんだ」
「何故?」
「それは言えん。企業機密って奴だ」
「また、爆弾で人を殺すの?」
「おまえだって人を殺すだろ?」
「ああ。おまえ達のような卑劣な奴をね」
マントの下から銃を構える。
「怒ったのかい? ガラクタを始末した事」
「やっぱりおまえ達が殺ったんだね? 何故?」
「聞かなかったのかい? 『ヘビー ダック』から……。我々は美しくない者は認めない主義なんだ。バスにも地下鉄にも、そういう者が大勢乗っていた。それに、『ヘビー ダッグ』の敵であるおまえのお友達もね」
「はじめからチャーリーを狙って……!」
「奴は裏切ったんだ。奴がおまえ達に協力しなければ全てが上手く行ったんだ」
「チャーリーが言わなくても僕達は突き止めたさ」
「どちらにしても、おまえはここで終わりだ!」
「何故? 『ヘビーダック』だって純粋じゃなかったんだろ?」
「そうさ。だから、使えるだけ使って始末するつもりだった。それが少々早まっただけに過ぎない。だが、その事で我々の作戦の遂行に当たって余儀なく変更を強いられた。しかも、汚れた血によって……! それが許せんのだ」
「可哀想なアヒルさん。どちらにしても焼き鳥になる運命だったんだね」
とルビーがいつの間にか取り出したリングを指に掛けて回す。

「フン。口の減らないガキだ。どうした? 撃って来ないのか?」
「ああ。これね。水鉄砲なんだ。よく出来てるでしょう?」
と片手を上げて見せる。
「水鉄砲だと? ふざけやがって!」
「早くそいつを捕まえろ!」
「袋叩きにしちまえ!」
連中がいきり立って叫んだ。そして、掴みかかる彼らの腕をすり抜けて、彼は再びマストの天辺に飛んだ。そして、そこで夜空に向かってリングを放る。それは夜光塗料が施されており美しく輝いた。それから、彼はその輪の一つ一つを下に投げると男達の首に掛けた。
「わあ! すごい! みんなヒットした! 僕って輪投げの天才!」
とうれしそうに笑う。無論、男達は激怒した。が、彼はポールの上に立つと水鉄砲で彼らの首に掛かった輪を狙った。そして、それらは確実に命中し、その度に爆発が起き、彼らは四散した。リングに爆弾を仕込み、起爆スイッチに水鉄砲を当てたのだ。

「バカな……! たかが水鉄砲で……」
「何を今更驚くの? おまえ達が散々やって来た方法じゃないか。あの『チェーンリング』に従ってね」
ルビーはバサリとマントを脱ぐと大きなリングを次々とマストのポールにシャラシャラとはめた。そして、そこから一気にブリッジへと飛ぶ。
「ギル!」
彼が橋の上からそのリングの起爆スイッチを撃ち抜く。と、チェーンが次々と爆発し、最後のリングに着火した時、船は大爆発を起こした。
「ルビー!」
風圧に煽られて飛ばされたルビーの手を捕まえて橋の上へ引っ張り上げる。
「ありがと」

その背後で起こる爆発と巨大なオレンジの火球。欄干が揺れ、火花が散って、水面を照らす。周囲の家の窓から明かりがポツポツ灯り、それはまるで地上の星のように輝いて見えた。その窓の一つ一つには不安そうに様子を見つめる顔があるのだろう。同じロンドンにありながら、彼らとはまるで無縁の空間で繰り広げられている命のやり取り……。水面に映る花火のように、それは一瞬だけ煌いて、すぐに消えた。そして、『レッドウルフ』の一つの拠点であった船が、黒い川の闇に呑まれていった。
「でも、これで終わりじゃないんだね?」
静かな水面を見つめてルビーが言った。
「ああ」
それは、一つの分岐点でしかない。巨大に張り巡らされたチェーンのたった一つのリングでしかないのかもしれない……。

Fin.